思い出すままに

思い出すままに


愛媛大学名誉教授
愛媛女子短大教授
文理学部生物1回(昭和28年)卒業
越智 脩

初期の学生用顕微鏡

旧制松山高等学校を卒業し,1年遊んで,新制の愛媛大学文理学部理学科の2年に編入した。半年の教養教育を終えて,専門に移行。生物専攻の学生は3人。理学科60人の大部分の学生は,いわゆる医科進組。当時,愛媛大学に医学部がないため,2年終了後,他大学に進学していった。

2年間は持田地区。生物教室は焼け残った校舎を使った。温室も残っており,動物飼育小屋だったと思われる建物には,宮本先生が住んでおられた。温室の西には1本の大きなユリノキがそびえていた。この木は挿し木で簡単に増やせるため,その子孫があちこちで見られる。元の教養教棟の東側の通路のものも挿し木から育ったものである。

持田キャンパスの回りの水路にはシジミが沢山おり,夏になるとホタルが乱舞した。ホタルを捕まえて来て,写真乾板上をはわせ,光跡の写真を作ったのはよかったが,途中で飛び立ち,暗室の中を数日間ピカピカ。参った。もちろん,ホタルの幼虫が寄生するカワニナも沢山おり,森川先生の実験材料になった。

顕微鏡は沢山あった。松山高等学校が開学した大正8年ころに購入したもので,倉庫に入っていたために,戦火を免れたのだった。ミクロトームが1台あり,これを使って顕微鏡標本を作れと,澤田先生から言われた。錆び付いて動かない。どうしていいか,よく分からない。とにかく動くようにしなければならない。先生方もあまり詳しく教えてくれない。分解しサビを取り,組み立てて動くようになるまで,約2ヶ月位かかっただろうか。板ガラスはなぜか沢山あり,スライドガラスはガラス切りで手作りした。色素はいろいろ残っていたが,アルコールが少なく,使った以上になぜか蒸発が激しかった。人体実験に使った人がいるらしい。

プラスチックはまだない時代。ガラスのビーカーもほとんど無いのに,メダカのヒレの再製実験をするように言われ,メダカの入れ物がないのに困った。板ガラスを切って,セメンダインで張り付け,小さく水槽を作ってメダカを飼ったが翌朝教室に行くと何個か水槽が壊れていた。メダカは簡単に採れた。材料よりも,実験道具に苦労した。

そのころ,大植先生が血液の実験に使っておられた海産動物に興味があり,満月や新月のころ,実験を夜に変更してもらって,興居島や白石の鼻に出掛けた。その数年前,昭和天皇が持田キャンパスに来学され,また興居島でゴゴシマユムシを採集されたことも,海産動物に興味をもつようになった要因であるのは否めない。ゴゴシマユムシの巣の見つけ方や採集の仕方も上手になった。

4回生になって,広島から編入生が大勢入りにぎやかになったが,城北地区にマッチ箱を立てたような鉄筋の研究室ができ,生物教室は2分され文理学部の先発として城北に移った。教育学部の生物が一緒になり,お互いの学生が交流しながらの学生生活最後の1年だった。