忽那諸島(興居島)の海浜生物に憧れて

忽那諸島(興居島)の海浜生物に憧れて



元高等学校校長 前教育長
現中国短期大学理事
文理学部生物1回(昭和28年)卒業
井上 謙二

広島高等師範学校生物科3年生の初夏に,磯採集のためクラス一同は柳生先生の引率で興居島にやって来た。泊小学校の教室に起居しながら島の海岸一帯を磯採集して歩いた。巻貝,うに,かしぱん、ゆむし,うみうし等々多種多様の動物が磯一杯に生息していた。見るもの全てが新鮮で図鑑と首っ引き。この時島の方々,特に泊小学校の高橋先生にはことにお世話になった。広島県の高校教師になってからも島を訪れ,高橋先生宅に泊めて頂き動物採集を続けた。昭和28年春より広島大学に大学院が開設されることになり入学資格に新制大学卒業が必要とのこと。私は高校教師を辞して大学院に進学することを決意した。それには先ず大学を出ること,そこで興居島に近い愛媛大学に編入学することが一番と考えて,恩師の柳生先生(当時広島大理学部助教授)に相談し,愛媛大学に打診してもらった。旧制専門学校から新制大学に編入する場合,文部省は3年生へと決めていた。しかし高等師範学校は4年制なので特例として1年以上在籍し卒業単位が取れればその時点で卒業を認めるということで編入学が認められた。この時私を含めて広島高師生物科出が5人同時に愛媛大学生物学教室に編入学したので,4回生在籍の4人に加えて倍増した学生で先生方は大変だったと思う。広島高師の先輩の森川先生には松山市に初めて訪れた時から最後まで公私にわたりお世話をかけた。皆でお宅へおしかけては奥様にご迷惑をおかけしたことも屡々であった。卒論の指導は伊藤先生にお願いし「ヒドロゾアの刺胞による系統分類」をテーマに頂き,早速準備にかかった。ヒドロゾアの採集地は興居島の黒崎,採集道具を肩に持田の校舎から市電,高浜線,渡船と乗り継いで泊港に渡り,泊小学校の高橋先生宅で海水着に着替えて黒崎海岸へ,海に潜って実験材料をとる。干潮時がとりやすいのでその時刻を見計らってやってきた。大体午後3時頃から5時頃が多かった。高橋先生宅では採集して帰ると奥様が何時もお風呂を沸かして待っていてくださり,体の潮を洗い流すことが出来て本当に感謝の気持ちで一杯だった。実験室に帰ると材料が生きているあいだに処理しておかないと打目なので,徹夜作業になることが多かった。

授業の方も卒業に必要な単位以外も貪欲に受講した。旧制の男子校で育った私は新制の大学の男女共学で,特に一般教養科目受講の時,女子学生が周囲に座っていると落ち付かなくて困った。伊藤先生と飲みに出掛けたり,お宅にお邪魔したり,時にははめをはずして奥様の顰蹙を買ったりもした。一週間ほど熱を出して寝たことがあった。奥様が毎日食事を下宿まで運んで下さり今でも熱いものを感ずる。松山を去る日,挨拶に行った。湯飲みにお酒が,「酒と共に去りぬ」とは奥様の言。後日松山での研究が昭和天皇の論文に引用された。我が人生のなかでもっとも充実した一年間であった。

生物学教室(文理学部・教育学部)教職員一同と4年生・3年生の全員1953(昭和28)年3月卒業式前