「瑞宝小綬章」受章について

松崎 貞憲 (昭和353月 文理学部理学科化学専攻卒業)

 

 昭和4年生まれの私が工業学校を卒業したのは昭和22年でしたが、家が貧乏で進学したかったけれど出来ませんでした。そこで肉体労働の仕事を七ヶ月間やり、収入はすべて貯金して受験勉強に命をかけ、翌年3月、競争率7倍の久留米工専(翌年九大教養学部となる)に合格、貯金を握って進学しました。工専時代は僅かな送金とバイトで3年間頑張りましたが、当時は企業の求人は極めて少なく、それ故、家に戻って新制中学の教師となりました。5年後の春休み、旧工専に補欠で入学した旧友に出会った時、彼が「奨学金を貰って京大大学院に在学している」との言葉に大ショックを受けました。彼は将来「学者か研究者になるだろう」と思うと自分が情けなかった。大学院に進むには工専卒では2年間不足で、大学3年に編入して単位を取らねばならない。そこで東京以西の大学に問い合わせたところ。2校からOKの返事があり、28歳で愛媛大学3回生に試験を受けて進学しました。しかし、奨学金は貰えなかったので大学院は諦め、大阪に出て府立高校の教員になりました。

 府立高校で12年後、生活指導部長に推され、それから8年間、非行生徒の指導に命を懸けました。放火と殺人以外はすべて起こり、家庭訪問も山程行いました。この頃「いじめ」を指導対象にしたのも私が初めてでした。これらが評判を呼び、テレビ出演や書籍の原稿依頼、教員研修の講師依頼などが次々に起こりました。

 50歳の春、突然、教育委員会の主幹に任ぜられて教員人事を担当したが、1年後、最困難校と評判の某高校の教頭に任ぜられました。それから3年間、懸命に頑張った為か、満足に勤めた校長は殆どいないとの評判の某高校長に任ぜられました。それから3年、職員会議といえば「校長と教員の戦い」の連続でしたが、私は一歩も退かず頑張りました。

 57歳の春、名門と言われている某高校長に転任となりました。この高校では殆ど全員が大学進学希望で、国立大学への合格者は毎年230名前後でしたが、調べてみると、現役合格者は何と30名前後でした。これから私の戦いが始まりました。翌春、現役合格者は40余名、その翌年60余名、最後の年の春、遂に100名を超えました。

 私が昨秋「瑞宝小綬章」を陛下から戴けたのは、最終の高校の実績が認められたためでしょう。