「もう一つの卒業論文」

 

化学科13回卒業

理工学研究科博士後期課程2001年修了 森本千恵

 

4回生での卒論移行先としてどこの講座・研究室を選ぶかは一つの大きな決断であった。理由はさておき、私はかなり早い頃から「構造化学」志望で、念願通り配属することができた。当時の講座は、教授が石津和彦先生、助教授は向井和男先生、それから私たちが4回生になると同時に助手になられた田嶋邦彦先輩(現・京都工芸繊維大学 教授)という先生方で構成されており、元気な講座であった。そして、私は向井先生の研究室(向井研)に入った。

当時の向井研は、一期上の先輩方が全員女性だったことから、「向井女学院」などと呼ばれたりもしていた。私たちの配属と入れ違いで修士課程の先輩が修了され、一期上の先輩方は全員就職されたため、私たちの学年は卒論生のみ6名(男子3名、女子3名)となった。しかし、田嶋先生はじめ石津研の修士の先輩方が優しい方たちばかりで、様々な場面で丁寧に教えてくださったり、助けてくださったりした。田嶋先生や何人かの先輩は30年以上経った今でもずっとお世話になっている。

向井研には、「向井研ノート」という研究室の出来事や自分たちの日常を綴った、いわゆる日誌のようなものがあった。それは秘密裡に書かれたもので、向井先生にはもちろん、決して向井研以外の目に触れるものではなかった。当然、私たちもそれを引き継ぎ、日常の出来事や実験の進行状況、また時々の想いを綴っていった。結局、B5サイズのノート10冊にも及んだ。

向井研ノートは、324日の先輩方の卒業式の日から始まっていた。最初は自分たちが合成や測定に使う試薬の蒸留に関することから始まっていた。少し抜粋してみる。

326AM1:05 昨日からずーっとエーテルの蒸留をしっぱなしで、頭が変になってしまいました(K)(※注:卒論生の一人。ノートにはイニシャルのまま)』

328日 小野くん(※注:卒論生の一人)、昼からBenzo-15-crown-5の、ろ過採取したけれども、な・な・なんと、PM10時までかかってしまった。俺は怠慢少年です。今、“清酒”月桂冠をグイグイ飲みながら書いてます。…途中、田嶋先生、Sさん、Fさん、Oさん(※石津研の修士課程の先輩方。ノートには実名で記載)が来られて自分にプレッシャーを与えてくれました。感謝致します。』

629日(水)きょう私は、2本測定(ESR)して2敗した。今月に入って、合計20本、うち、2162分。大きく負け越してしまった。もうあまり元気がありません。ショックのあまり、身も細る思い・・・(※注:森本の記述)』

ノートは、書いた者が机の引き出しに隠していたのだが、あるとき、誰かの不注意で机の上に置きっ放しになっており、田嶋先生や石津研の人たちの目に触れることとなった。それ以来、向井研ノートは秘密裡ではなくなってしまった。

当時、土曜日はいわゆる半ドンで朝から実験していたが、午後からは比較的自由であった。向井先生は、土曜の午後になると決まってどこかに出て行かれて夕方まで、時には夜まで帰って来られなかった。当然、そんなこともノートに書いた。するとあるとき、「それは、きっと碁を打ちに行かれているんだよ。」と先輩から情報が入った。好奇心旺盛な私たち卒論生は、ある土曜の午後、こっそり向井先生の後をつけていった。そして先生がある喫茶店に入って行かれるのを確認し、またその店では多くの人たちが囲碁を打っておられることも確認した。早速、ノートに、『あっ!!いない!!ピンときたならすぐ電話○○○○(※注:店の電話番号)本格囲碁喫茶△△(※注:喫茶店の店名)』と書き込んだ。そのことも確か秘密だったはずだが、なぜか後日、当時の有機化学講座の助手の先生(※注:現・京都大学 教授)に「森本さん、向井先生をあまりいじめないように。イヤ、ボクは何も聞いてないけど・・・」と注意(?)されてしまった。そのことがどうして有機化学の先生にまで知れ渡ってしまったのか。実は、有機化学講座所属の卒論生にまで向井研ノートを見られていたのだった。見られるだけでなく、書かれてもいた。なお、囲碁喫茶の記述は、卒論生の一人がB4サイズの紙に書いて、普通には視界に入ってこない実験室の天井近くの壁に貼っておいた。後日、それに気付かれた向井先生が、それが誰の仕業かまず疑われたのは私だった。勿論私が書いたのではなかったが、日頃の行いのせいで真っ先に疑われたのであった。

今、手元にあるのはノートのコピーであるが、読み返してとても懐かしく感じる。火が出たり、水浸しになったり、研究室旅行ではスピード違反で捕まったりと、様々な事件が起こったが、それらを面白おかしく時にはイラスト入りで書いている。私が一番不真面目であったが、それでも全員がよく実験していて、実験が成功しても失敗しても毎日が楽しく、活気があったことを物語っている。

「向井研ノート」は、私たち6人の卒論生にとってはもう一つの卒業論文であった。