愛媛大学での31年間

愛媛大学での31年間

 和多田 正義


2019年5月登録
 東京で生まれ育ち、東京の大学を卒業し、ショウジョウバエの研究をしていた私が、愛媛大学に職を得て31年になりました。愛媛大学に勤めるまでには、大学院を終了した後に、当時は渋谷区南平台にあった(現在は千葉県我孫子市)山階鳥類研究所で2年半、静岡県三島市の国立遺伝学研究所で半年、アメリカのノースカロライナ州にあるNIHの研究所(NIEHS)で2年ほど研究生活を続けていました。NIEHSの上司は、テニュアを取るために自身の研究を中断して、申請書を審査する仕事にかかりきりになってしまったことから、研究室は私と黒人のテクニシャンと2人で運営することになり、そのために行ったときから多くのトラブルを抱えました。このままでは大した業績もあげられず、日本に帰れないのではなかと思っていた頃に、愛媛大学の教養部に講師に応募しないかという話があり、縁があって愛媛大学に採用されました。爾来、愛媛大学で教育研究に励み、無事に退職するまで勤めさせていただきました。
 愛媛大学に勤めた31年間のうち、始めの8年間は教養部で教育研究を行っていました。アメリカで愛媛大学の前任の先生の時間割を見たときには、普通の量のノルマだったのですが、前任の先生はその時全学の学生部長をされていたので、講義時間が半分になっていて、教養部では2倍の講義数になっていることが後で分かりました。しかし、その分教養部では研究費は多いことが分かり、とりあえずの研究費には困りませんでした。しかし、実験スペースは実に狭く、私が個人的に専用できる実験スペースは2坪の恒温室だけでした。また、全国的にも珍しいと思われる理学部生物学科の卒業研究生の指導をするシステムができており、私も初年度から2名の卒業研究生を指導するなど、理学部の先生と同様に卒業研究生や大学院生の指導を行なっていました。31年間に指導した学生は80人ほどでそれほど多いわけではありませんが、着任2年目に指導した津村英志さんについてはここに記しておきたいと思います。津村さんは私の所で大学院博士前期課程を修了し、愛媛県松野町にあるおさかな館に勤め、館長をしていました。
彼が館長をしている時には、学生たちを連れておさかな館に行ったり、テレビ等でその活躍ぶりを拝見していましたが、2018年2月に50歳の若さで早世されたのは、返す返すも残念でなりません。
 1996年に全国の国立大学の教養部が廃止され、私は理学部の所属となりました。その当時の理学部本館は改修の予定で、今ではミュージアムになっている教養部の建物でしばらくの間、教育研究を続けていました。理学部へ所属してすぐに私は10ヶ月の在外研究をする機会を与えられました。行き先はアメリカのアリゾナ大学のマーガレット・キッドウェル教授の研究室でした。キッドウェル教授はショウジョウバエのハイブリッド・ディスジェネシスという現象を発見された方で、この発見を契機にショウジョウバエの分子生物学が発展したことで著名な先生でした。キッドウェル教授は、1996年当時はハイブリッド・ディスジェネシスをひき起こす要因であるP因子というトランスポゾンの分子系統の研究を行なっていました。私は日本で採集したさまざまなショウジョウバエを持参し、研究するつもりでしたが、私が行った時にはP因子の研究はあらかた終わっており、私自身は別の遺伝子を使って分子系統の研究を行いました。アメリカの大学や研究所では東部と西部で研究に対するふんいきが異なるということは聞いていました。NIEHSに行った時はアメリカ東部の研究所でポスドクだったということもあり、研究漬けの生活をしていました。一方、アリゾナ大学では西部の大学ということで学生に囲まれた生活だったので、アメリカの大学生の様子も良くわかり、私も大学生活を大いに楽しむことができました。
 キッドウェル教授の研究室に行くために収集しておいたさまざまな種の系統が縁となり、2002年から文部科学省のナショナルバイオリソースプロジェクトに関わることになりました。このプロジェクトは日本では個人の研究者や外国のストックセンターに頼っていた生物の系統維持を、国レベルで戦略的に収集・維持・提供しようとするもので、ゼロからのスタートになりました。私はこのプロジェクトに分担機関として最初から参加し、定年退職の年まで17年間継続することになりました。ストックセンターを開設するにあたり、私が収集していたショウジョウバエだけでは全く足りないので、始めの数年間は日本中を採集することになりました。また、今までにないプロジェクトのために理学部の事務の担当者の方々にはたいへんお世話になりました。このプロジェクトに関わったために、私の研究時間は大方このプロジェクトに割かれ、土日も大学に来るような生活になってしまいました。このボランテアともいうべきプロジェクトでは当初予想していた悪いことばかりでなく、国内外の多くの研究者と接点を持つことができ、そのうちのいくつかは共同研究となって望外の実を結びました。
同窓会の原稿を頼まれた時は、2000字を書くのは大変かと思っていましたが、いざ書き始めてみると書くことが多く、すぐに2000字を超えてしまいました。最後に31年間に及ぶ教員生活で指導した学生だけでなく、多くの学生、教員、職員の皆様に親しくご交誼いただいたことに深く感謝していることを申し添えておきます。皆様方の益々のご発展とご健康を心からお祈り申し上げます。