定年退職を迎えて

定年退職を迎えて

 加納 正道


2019年5月登録
 33年と6ヶ月に及ぶ愛媛大学での生活でしたが、過ぎてしまえば「あっという間」でした。この間、いろいろなことに頑張ってきたつもりですが、では何ができたかいうと、たいしたことができていなかったことに気づかされます。しかしながら折角このような機会をいただきましたので、反省の意味も込めて33年と半年を断片的に振り返らせていただきます。
 私が愛媛大学に赴任したのは昭和60年(1985年)10月で、振り出しは教養部生物学教室の講師でした。これはちょうどその頃、法文学部に夜間主コースができ、その教養教育のための定員がついたことによるものです。そこから教養部での生活が始まるわけですが、教養部での最大のミッションは教育であり、多くの講義や学生実習が待ち構えていました。私には本来の教養部での講義に加え、法文学部夜間主での講義があり、理学部での講義もありました。その当時、教養部の生物学教室と理学部の生物学科はうまく連携しており、人事においても理学部にはない分野の教員を教養部で揃えるようにしていました。理学部にはなかった動物生理学が専門の私が採用されたのも、そのあたりの事情もはたらいていたようです。従って、理学部における動物生理学の講義を担当するのは、半ば当たり前のような雰囲気でした。また、理学部の卒論の学生も引き受けて研究指導を行っていました。そのような教育中心の大学生活の中で、いかにして研究にための時間を作り出すかがその当時の課題でした。研究中心の理学部がとても羨ましく感じた時期でもありました。
 平成3年(1991年)、海外で研究する機会が訪れます。本来の私の専門は昆虫(コオロギ)を使った神経行動学なのですが、米国ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の菅乃武男先生が、コウモリの研究をしに来ないかと誘ってくださったのです。菅先生はコウモリのエコロケーションにおける大脳聴覚野の研究の第一人者でありますが、実は奇妙な(?)縁がありました。菅先生との最初のつながりは、北大時代の私の恩師である下澤楯夫先生が、かつて菅先生のもとで研究をしていたことによるものですが、私が赴任した教養部の生物学教室におられた池田洋司先生(故人)も米国におられた時に菅先生と同じ研究所だったのです。両先生の推薦ということで、菅先生もたいそう喜んで私を迎えてくれました。米国への出張は2年間という長丁場で、しかも妻と子供三人を引き連れてでしたので色々と大変でしたが、多くの貴重な経験もできました。
 平成5年(1993年)に帰国しましたが、この年の松山は平成の大渇水の年でした。おかげで、水のタンクを持ち上げようとした妻は、帰国早々ギックリ腰になってしまいました。実は、私が帰国する直前のセントルイス(というよりも、ミシシッピ川流域の多くの場所)は中西部上流域での大雨により洪水になっていました。これは米国史上最大の被害をもたらした洪水とも言われています。私も研究室の同僚達と支援物質の仕分けのボランティアに行きました。米国で洪水にあい、帰国したら大渇水というわけで、水にたたられた忘れられない年でした。
 それから間も無く、大きな出来事がありました。それは平成8年の教養部解体です。その直前までは教養部の新しい校舎を作る計画が進められ、すでに図面まで出来上がっていました。その矢先の組織解体ということで、一生懸命に教育を行ってきた我々は非常に複雑な心境でした。紆余曲折があり、私は理学部に所属することになりましたが、不本意な異動を強いられた教員もいたようです。ただし理学部に移籍したと言っても、理学部本館の改修工事や昆虫の飼育設備等の都合で、しばらくは旧教養部の建物(共通教育棟)に居続けました。理学部への引っ越しができたのは、それから11年も経った平成19年のことでした。
 所属が理学部へ移った後、時間的に少しは余裕ができるようになりました。すなわち、教養教育を行う部局がなくなったので、それまで教養部の教員が担当していた教養教育を全学の教員で分担することになったからです。もちろん私も自分の担当分の講義は受け持ちましたが、それまでに比べると随分と楽になりました。そのおかげで、研究も少しずつ良い方へと向かって行きました。科学研究費補助金はそれまでもほぼ絶え間無く獲得できていましたが、平成11年度から13年度にかけては大型の科学研究費である、「特定領域研究(A)・微小脳システムの適応的設計」に計画班代表として参画することができました。この時の予算で、いろいろな実験機器を揃えることができたことが、後の研究の進展に繋がりました。この特定領域研究では、多くの関係者が参加しての研究会やシンポジウムを松山で開催しましたが、研究室のスタッフは私一人ですので、会場や宿泊の手配、あるいは懇親会の準備等でとても大変でした。やはり、何もしないでうまい汁だけを吸うことはできないことを痛感しました。
 愛媛大学における最後の数年間は、執行部の一員として理学部の管理運営に力を注ぐ(注がされる)ことになりました。特に最後の1年間は、評議員・副理学部長としてのみならず、理学部設置50周年記念事業等を取り仕切る2つの委員会の委員長を任せられました(このことは、別に書かせていただいております)。管理運営のような仕事はあまり得意ではなく、むしろ嫌いな分野なのですが、どういうわけか不得意な仕事で大学生活を締めくくることになってしまいました。あまり理学部のお役には立てなかったことと思いますが、ご容赦願いたいと思います。  理学部は来年度より改組により一学科となります。是非この変革をチャンスとして、大きく発展していただきたいと思います。これからは外から理学部の発展を見守って行きたいと思います。