退職に関して思うこと

退職に関して思うこと


 柏 太郎


 就職するまでは、一ヵ所に長くて10年留まるのが自分の人生かなと思っていた。小学校4年生までの東京・世田谷のあと、埼玉・浦和で18歳まで過ごし、その後5年ずつの宮城・仙台、愛知・名古屋での大学、大学院生活。しかし前任地、福岡には20年以上に渡り慣れ親しんでしまい、母の生まれ故郷である松山に赴任して13年である。

 名古屋大学で博士論文を書きあげた当時は、職のないオーバードクターの時代(今より厳しかった。ポスドクは国内ではほとんど皆無。外国に行くほかなかった)。アメリカで6年間ポスドクを死ぬ気でやって、だめだったらあっさりやめて別のことを(はっきりと何をやるか決めていたわけではないが)やるつもりで、素粒子奨学生として京都大学基礎物理学研究所で1年間、筑波の高エネルギー物理学研究所でさらに半年間過ごした。幸運にも九州大学理学部に職を得ることが出来たときは、妻と二人で万歳三唱したものだった。  職を得てからは35年あまりの研究・教育生活である。助手・助教授時代は楽しくて仕方なかった。昼過ぎに大学に行って、大学院生と議論しては、年に1、2本の論文を書いて、毎晩のように、時には朝まで酒を酌み交わした。カナダに長期滞在した折には、友人のカナダ人に『うらやましいな太郎は。気分転換やストレス解消が普通は必要なのに、趣味が仕事になっているから。』と言われたときは、実感はなかったが、後に痛いほどこの言葉が心に突き刺さることになる。

 愛媛大学に着任した2002(平成14)年には、大学法人化の具体化が問題となり始めており、理学部では教育改革が始まっていた。赴任挨拶の後、当時の柳沢学部長、野倉評議員と学部長室での雑談の折、カリキュラムの話題になった。直前に九大で物理のカリキュラム改革をやってきたばかりなので、あれこれ経験談をぶっていると突然、『これからの理学部も教育改革正念場なので、手伝ってくれ』と言われた。これが全ての始まりであった。理学部発祥の教育コーディネーターの統括をやることになり、(すべて同じ時期に)学部長補佐、評議員、統括研究コーディネーター・経営政策室などと研究・教育以外の仕事に忙殺されるようになった。何もかもが、法人化に伴う初めてのことで誰も経験がない。学長・評議会メンバー・学部長・補佐室メンバーで話しあいながら進むほかなかった。必然的に多くの時間を費やすこととなる。方針は、ある程度トップダウンで出すしかないが、教育に関しては、文科省の顔色をうかがいながらのものは特に評判が悪い。ストレスはたまる一方である。日曜日は本当に、マルクス・エンゲルスの言葉じゃないが『労働力の再生産過程』であった。こんな生活のなか、松山に呼び寄せた母も94歳の生涯を閉じていった。父も、ここで亡くなっているので、松山は父母の死所と言うことになる。

 忙しい中でも、研究との接点は単行本(演習場の量子論:サイエンス社・量子場を学ぶための場の解析力学:講談社・演習繰り込み群:サイエンス社)や事典(大辞林・新物理学小事典:三省堂)などの執筆でかろうじて保っていたが、数年前からは法人化後の施策もようやく安定化してきて、前例にならう仕事が定着してきたことで、少しずつ自分の時間が増えてきた。特に最後の3年間は、理学部執行部の若返りもあって、研究・教育中心の生活に戻ることが出来、10年ぶりに論文を書き、新たな単行本2冊の執筆に費やす十分な時間を持てることになった(経路積分に関するものは2015年秋に裳華房から、相対性理論に関するものは、数学書房から出版される)。

 退職後はカナダのオカナガン地方のペンティンクトンという町でのんびり過ごすのが夢であったが、現実はなかなか厳しく、しばらくは本の執筆と、(非常勤での)講義のブラッシュアップなどの仕事を続けることになりそうだ。週に10万歩を目標に、体力を維持しながら、時には山登りでもしようと思っている。

 最後になったが、これからも理学部という特質を、つまり、すぐには結果の出ない基礎研究を強力にサポートする体質を、前面に出した愛媛大学理学部であることを切望して、筆を置きたい。

 長い間、お世話になりました。これからもよろしくお願いします。



2015年6月10日登録