恩師の思い出

恩師の思い出


 佐藤 成一

愛媛大学には37年間お世話になり昨年無事に定年を迎えました。この間、いろいろなことがあり過ぎて何を書けばよいのかわかりませんが、お世話になった方々、なかでも、愛媛大学に赴任するきっかけをつくってくれた大学時代の2人の恩師のことが真っ先に浮かんできます。学部及び修士課程でご指導いただいた広島大学理学部の田中隆荘先生と大学院博士課程でお世話になった京都大学原子炉実験所の石田政弘先生についての思い出話を紹介して挨拶に代えさせて頂きます。

私が田中先生にお世話になったのは、先生が「日本産菊の起源と進化のしくみ」を明らかにされた下斗米直昌先生の研究室を引き継ぎ、教授になられて間もない頃でした。ご専門は細胞遺伝学で、植物の核型分析や育種学に大きな足跡を残されています。特に、ラン科植物の分類・進化の研究で知られています。先生は、どんな学生でも辛抱強く慈愛に満ちた態度で接し、失敗を責めるようなことは一切しませんでした。私にも幾つか思い出に残る失敗談があります。当時昆虫採集が趣味の一つであった私は、沖縄に一度でいいから行ってみたいと常々思っていました。そんな折、私が修士課程に進学した昭和47年5月15日に沖縄が日本に返還されました。好都合なことに事務手続きで遅配されていた奨学金が6月に3カ月分まとめて手に入りました。そしてすぐ夏休みです。これは沖縄に行くまたとない絶好のチャンスです。私は夏休みに乗じて教員には何も告げず、一週間ほど沖縄全土をめぐり県の天然記念物のコノハチョウ以外の沖縄に生息している全種類の蝶を採集して大満足で大学に帰ってきました。直後に、田中先生から呼び出しを受け、「貰えない人がいるのにそんなふうに奨学金を使うのはどうだろう」と諭されたことがあります。しかし、穏やかでゆっくりした口調でかすかに笑みを浮かべながらお話になるので素直な気持ちで聞くことができました。もう一つ思い出に残る失敗があります。研究室共同で使用しているカメラをうっかり開けてしまい、中に入っていたフィルムを感光させてしまったのです。それを見ていた助手の方が血相を変えて近づいてきて、田中先生のところに行くから一緒に来いということでついて行きました。にこにこしながら仔細を聞いていた先生は、カメラの中に使用中のフィルムが入っていることが分かるようにしておかなかったのが悪いのではないかと逆に助手の方を諌め、私をかばってくれたのです。先生は当たり前のことを言っただけだったかもしれませんが、この時の経験がその後学生を指導する上で多少生かされた様な気がします。

博士課程に進学すると同時に、田中先生の勧めがあって大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所で2年間お世話になりました。そこには、当時、田中先生と懇意にしていた石田政弘先生が葉緑体DNAに関する研究をしておられました。私も、葉緑体DNAの合成に関する研究していましたので、お世話になることになったのです。石田先生は、米国コロンビア大学のSagerの研究室で葉緑体DNAを発見し、京都大学に戻ってきて間もない新進気鋭の研究者でした。そのお人柄は4文字熟語で表現すると、豪放磊落、才気渙発そして天真爛漫といった言葉で形容され、気さくで自由な雰囲気をもっておられました。その言動はしらふでも冗談と本気が区別できないほどで、お酒が入るとさらにエスカレートし、話の真偽の境界が全く分からなくなり、周りを惑わせることがよくありました。例えば、「自分は石田三成の子孫である」から始まり、「若い時には北海道を独立させる夢をもっていた。若い者はそれ位大きな夢をもたなあかん」といったような話がどんどんでてくるわけです。半分あきれながらも、おもしろいので適当に相槌を打ちながら話を合わせるわけです。ただ、石田先生の実家は数百年前に建てられた立派なお屋敷で祖先が2万石の大名であったという噂がありましたので、石田三成とつながりがあるという話はまんざら嘘ではなかったかもしれません。先生は、とても学識が広く、そしてなにより発想がユニークで、話を聞いていて飽きることがありませんでした。ところが、研究の指導は直接することは一切ありませんでした。矢継ぎ早に、いろいろなアイデアを出すが、決してこうしなさいとは言いません。あくまで何をやるかは自由でした。これは、愛媛大学に赴任後、一人で研究しなければならなくなった時、大変役に立ちました。

昭和51年に愛媛大学に採用が決まった時、先生がはなむけにくれた言葉が「佐藤君、愛媛に行ったら、一旗揚げんとあかんぞ。」でした。その後、この言葉は研究に行き詰った時の励みとなりました。愛媛大学に赴任時に、設備と研究費の関係で研究テーマを変更せざるを得なくなり、考えあぐねた末、核小体について顕微鏡を使った研究をすることにしました。理由は、葉緑体リボソームRNAに関する研究をしていたので、同じリボソームRNAを含む核小体に興味があったことと、何よりもあまり関心を持つ人がいなかったので、競争やお金を気にせずに研究できそうだったことです。いろいろ苦労がありましたが、当時ほとんど解明されていなかった核小体の構造についてかなりすっきりと理解できる程度の成果をまとめることができました。

大学時代にこのように大きな影響を与えてくれた先生方と巡り合えることができたことを大変幸運に思っています。田中先生の研究に対する真摯な姿勢と慈愛に満ちた指導そして石田先生の自由な発想と研究の厳しさ、励ましの言葉は、迷いや困難に遭遇した時に私を教育研究生活の原点に立たせてくれました。田中先生は、その後広島大学の学長、そして広島市立大学の初代学長になり両大学の教育研究の改革や運営に尽力されました。そして、平成20年に82歳で永眠されました。石田先生は、平成12年に亨年73才の若さでお亡くなりになりました。永眠されたお顔は十分人生を楽しんだのか、大変安らかで「佐藤君、ムシロ旗でも揚げることができたかね」といわれそうな気がしました。先生の名は、国際エンドサイトバイオロジー学会が設置したミーシャー・石田賞に刻まれ、その功績が称えられています。補足ですが、理学部の施設や教育研究の環境は今や素晴らしく整備され、私が赴任した当時とは隔世の感があります。最後に、理学部の今後の教育研究の益々の発展と卒業生の皆さんのご活躍を祈念しております。



2015年6月10日登録