恩師

 恩師


真鍋 敬

  退職してから,これまでのことを振り返る機会が多くなりましたが,やはり一番思い出すのは大きな影響を受けた先生方のことです。今治市の日吉小学校5年生のとき,素晴らしい担任の先生(故矢野高宣先生)に出会うことができ,学校での毎日が楽しくなりました。社会科や算数の授業などいくつかの場面が,黒板の前に立つ若々しい(当時30歳くらいでしょうか)先生のお顔とともに思い出されます。父が松山で教員をしていた関係で,6年生の2学期から愛媛大学近くの清水小学校に転校しました。

高校を卒業して大学生になってみると,ほとんどの先生,特に教授は近付き難い存在で,授業も一方的で学生は人間扱いされていないような感じでした。今から思うと,あのころ起きた大学紛争は政治的な問題だけでなく,このような状態に対する学生の不満が背景にあったように思います。大学院生会の委員として教授会とやり合ったり,「大学解体」を叫ぶ学生グループへの反対デモに参加したりして,博士課程1年から2年にかけては実験どころではなく,先の見えない毎日でした。それを見かねた当時京都大学理学部化学科助教授の故廣海啓太郎先生に,酵素反応速度にかかわる研究テーマをいただき,懇切なご指導のもとで何とか4年で博士論文を書き上げることができました。

大学院生時代の不行跡から,大学の職につくのは難しいと覚悟していたのですが,幸運にも30歳で東京都立大学(当時)理学部化学科の奥山典生教授の研究室に助手として採用されました。奥山先生との連日の討論から,研究テーマは独創的であるか,実験計画に妥協はないか,など研究に対する厳しい姿勢を学び,7-8年後にはもうお互いに話をしなくても考えていることがわかるようになりました。都立大学に15年余り勤めたあと,新設された姫路工業大学理学部(当時)の寺部 茂教授の研究室に助教授として採用され4年過ごしました。ある日,私が大学院生のころに研究室の助手をしておられた六鹿宗治先生からお電話を頂き,「愛媛大学の理学部化学科で公募をしているぞ,そろそろ親孝行をしたらどうや」とのこと,締め切りまで一週間ほどしかなく大急ぎで資料を整えて応募したところ,また幸運にも採用されました。一人っ子の私が松山に戻ったことをことのほか喜んでくれた父は,着任後1年と4ヶ月足らずで亡くなりました。

この公募当時学科長であられた河野博之教授には,私が研究を始めやすいように理学部本館2階の数部屋を空けて用意して頂いただけでなく,それらの部屋の壁のペンキ塗りまでして頂きました。ペンキの塗りあとは芸予地震後の耐震改修工事でなくなりましたが,河野先生とは理学部と中国清華大学理学院との交流協定の締結のための北京訪問などでおつきあいを頂き,その篤実なお人柄と科学に対する献身には,お会いするたびに感服します。

東京で大学の教員になった時は,まさか毎日の通勤の行き帰りに母の住む実家や卒業した小学校の前を通ることができるようになるとは思っていませんでした。このような幸運を得たのも,また教えることや研究することの楽しさを35年にわたって感じ続けることができたのも,お名前をあげさせて頂いた先生方をはじめ多くの恩師のおかげです。この場を借りて深く御礼申し上げます。



2011年1月13日登録