燃焼反応経路を求めて37年

燃焼反応経路を求めて37年


樋高 義昭


博士課程3年生の5月で退学し、昭和46年6月、愛媛大学理学部助手に採用頂き、37年目を迎えた本年3月31日に退職いたしました。思い出して見ますと、昭和46年4月、須賀先生(当時愛媛大学理学部化学科教授)より、私の恩師である山村先生に、“燃焼反応を一緒に研究出来る者を探している”との電話があったそうで、先生に勧められ、愛媛大学を訪問・見学しました。これを機に、37年間、理学部で過ごす事となりました。その当時、衝撃波管は気相高温反応の研究にとって理想的な反応測定装置と云われ、日本のいろんな研究機関で導入を計画されていましたが、衝撃波管装置一式を外注すると1千万円近くの費用が必要と云われ、簡単に導入出来る時代ではありませんでした。しかし、須賀先生の計らいで、衝撃波管装置を使用しての燃焼研究を始める事になり、赴任と同時に設計と材料探しに明け暮れる毎日を過ごしました。須賀先生の人脈の広さと私の愛用車、ホンダ“N360”の行動力で、昭和48年には衝撃波管装置の第一基目をほぼ完成することができ、最初に手掛けた研究が、エチレンの燃焼反応特性の研究であります。更に、運のいいことに、十数年に一度回ってくる理学部の特別予算で、四重極質量分析計を高温高速反応の研究に応用する研究(二基目の衝撃波管装置)を始める事が出来き、1974年には日本では初めてそれに成功する事ができました。その後、その装置を炭化水素の燃焼反応研究に応用し、他の方法では測定困難な、酸素分子の高速時間挙動を明らかにする事も出来ましたし、この装置の開発・成功は、化石燃料を含むCH化合物燃料の燃焼反応の基礎である、アセチレン燃焼反応機構構築(1996年に正逆反応を合わせて、約206個の素反応からなる反応機構を発表)の根幹をなす結果ともなりました。昭和53年には、これら一連の研究が認められ、新制の大学教官としては、初めて、吉田科学技術財団の助成を受け、渡米する機会を得ました。当時の高温反応機構の世界的研究者である、米国、テキサス大学オースチン校のガーディナー教授のもとで1年半、低級炭化水素であるC1,C2炭化水素(メタン、エタン、エチレン、アセチレン)の研究を行い、世界の他の研究室に先駆け、CH化合物燃料(化石燃料を含む)の基礎となるC1,C2炭化水素の燃焼反応機構を発表することが出来ました。このテキサス大学オースチン校での研究を通して、高温反応機構の計算手法を学び、その後の燃焼反応機構研究の発展の基礎を作ることが出来ました。帰国後、相次いで燃焼反応機構の懸案であったホルムアルデヒド、ケテン、アセチレン、エチレン、エタン、メタンの研究を手掛ける事ができました。本研究室で開発作製した3基の特色ある衝撃波管と、コンピュ−タを駆使し、独自の燃焼反応機構研究システムを用いて、系統的に、C8までの炭化水素燃料、更にエーテル、アルコール、フロン類等を研究する事ができました。地方大学では、無理と云われた研究を37年間と云う長きに渡り続けてこれましたのは、ひとえに須賀先生を始めとする先輩の先生方、愛媛大学文理学部・理学部の卒業生の皆様のお陰と深く感謝いたしております。この場を借りまして厚くお礼申しあげます。



2008年4月21日登録